片恋日記 

文学に魅せられてしまった哀れな女の日記です

淡い空色のファンタジー

朝起きて窓の外に目を向けると、横に長い雲の切れ間から青空がのぞいていた。

われこそは夏の蒼穹なりと宣言しているかのよう濃い色味ではなく、淡くて控えめである。

この好ましい色合いには見覚えがある。

私はピアスケースを開けた。

そこにはブルーレースアゲートのピアスがあった。

ブルーレースアゲートの和名は、「空色縞めのう」というらしい。球形にカットされたブルーレースアゲートには細い線が走っており、慎ましい色合いの石にモダンな印象を与えている。

天然石はパワーストーンと呼ばれることがある。

ブルーレースアゲートは、良好な人間関係の構築に作用するらしい。

綺麗な石を身につけると、よきものが受け取れるという考えにはロマンがある。私は科学の合理性よりもファンタジーを選ぶ。

良好な人間関係を築くために必要なのは相手の話をよく聞くこと、そして自分の気持ちや意見もちゃんと伝えることであろう。受信と発信、どちらが欠けてもいけない。

ブルーレースアゲートのピアスを身につけた今日は、人に優しいレディでいようと思う。

われ愛す、ゆえにわれあり

まだ自分の文体を獲得していないので、書いては消しを繰り返している。

だが、なんとなく方向性が見えてきた。私は明晰にして豊穣な文章を目指している。理想の作家は大岡昇平である。陰惨なシーンを含む「野火」も、卓抜した文章力のおかげで読みきることができた。

センテンスが長くて改行が少なく、言葉のグルーヴ感で一気に読ませる文章は私には書けない。読者としては、かような名人芸を味わうのが大好きであるが。

文体は天から授けられるもので、努力によって改良することは不可能という考えもあるだろう。

でも、足掻いてみたいのだ。私は文学を愛している。文学の方は私のことを愛していないに決まっているが、それでもいい。

自分のなかに青くさくて生煮えの野心があることを私は面白がっている。しがない小市民でございますという顔をしながら、内心では作家に憧れていて、自室でひとり報われない恋文のような小説を書いている年かさの女。悲喜劇の登場人物として合格であろう。

出版不況が叫ばれる昨今、聡き者は言うかもしれない。「文学は死んだ」と。

もしそれが真理だとしても構わない。死者を想うことは禁じられていないではないか。

私はおのれの愛を貫く。

 

パンプスとアロガンス

クローゼットからスカートが消えた。

加齢により、女らしく見られたいという気持ちが減退したためである。

足元でふわりと揺れるスカートは美しいと思うが、私が身につけることはない。

最近はスニーカーばかり履いている。

パンプスの出番はもうないのだけれども、今日こそゴミ袋に入れようと思って箱を開けると手が止まってしまう。パンプスを愛用していた頃の記憶がよみがえるからだ。

かつての私は、女らしくありたいと願っていた。男性に気に入られれば生きやすくなると信じていた。胸を張って言いたいことを言う代わりに、頭を下げて聞きたくないことを聞いていた。

今は、自分の運命を切り開くのは自分自身しかいないという考えを持つようになった。強さと引き換えに私は傲慢になった。中年の女の自己肯定感の高さが、われながら恐ろしい。パンプスをすべて処分したら、私はますます独善的になってしまうのではあるまいか。

箱の中に眠るパンプスは、私を女らしさというものに繋ぎ止めてくれる錨に他ならない。

 

おまえに見せる花火はない

夏は好きだ。

青空に浮かぶ入道雲、地面を穿つ夕立ち、そして轟音とともに打ち上げられる花火。

すべてがドラマティックである。

しかし、夏にまつわる記憶は少々ほろ苦い。

若かった頃は、人並みにパートナーを求めていた。

花火大会に誘われ、期待に胸が高鳴った。もしかしたら告白されるかもしれない。そう思うと着ていく服を選ぶのに気合いが入った。

だが当日、会場である海辺に着いても相手の男性は車から降りようとしなかった。カーテレビに映し出されたサッカー日本代表の試合を眺めている。

車の中からも花火は見える。ややくぐもった音も聞こえる。

しかしこれは私が期待していた花火ではない。

「混んでいるからね」

相手の男性はそう言うと、サッカー選手のプレーを論評した。

帰り道のことは覚えていない。

その男性とはそれきりである。

話はこれで終わらない。

数年後、別の男性と街なかの花火大会に出かける約束を交わした。

当日連れて行かれたのは小料理屋であった。男性は花火についてはまったく触れず、自分の家族について滔々と語った。

私は早々に退散した。

後日その男性から弁解のメールが届いたが、返事はしなかった。

今ならば分かる。男性は本命ではない女に対しては、とことんラクをしたいと考えるのだと。花火大会は面倒くさい。人垣に囲まれて窮屈な思いをしなければいけないし、大人の男は花火に特段の興味などなく、一、二発も見れば充分に違いない。

どうでもいい女を連れて、どうでもいい夜を過ごした彼らは今、幸せだろうか。

億劫な気持ちが吹き飛ぶほど、この人を喜ばせたいと願うような女性と出会えていたらいいなと思う。恋は人に力を与えてくれるものだから。

時は過ぎた。

生身の男性への興味は消え失せた。現在は文学こそが私の恋の相手である。

誰かに愛されたいと願う受け身な私はもういない。

万事を尽くし、作品という花火を打ち上げてみせる。そんな野望を抱き、机にかじりついている。

 

嫉妬の味

ドクターペッパーを口に含めば、独特の甘みが炭酸とともに舌のうえで弾けた。

嫉妬という感情もまた、この清涼飲料水のように魅惑的な味を備えているのではあるまいか。

プロ、アマを問わず、私にとってすべての書き手がまぶしい。

みんな自分にはないものを持っているからだ。

語彙、知識、発想。人生経験に構成力、観察眼、そして文体。才能のきらめきに出会うたび、心の底がちりちりと焦げつく。やがて感情が延焼して、私の胸に赤々とした嫉妬が宿る。

誰かを羨むことは苦しいだけではない。嫉妬に飲み込まれた時、私は自分の作品と向き合わずに済む。言葉を覚えたての幼児のように、いいなあいいなあと繰り返していればいい。

嫉妬は自己愛との戯れだ。階段の踊り場でステップを踏んでいれば、上を目指さなければいけないという現実から逃れることができる。

ふたたびドクターペッパーの缶を傾ける。

少しぬるくなり、甘みが強まった液体が喉を通っていった。

書きかけの原稿に着手するか、読みさしの本の書き手に嫉妬するか。

文学賞を獲るという夢を叶えたければ、答えは一択である。

 

 

散歩と夢想

空は暗く、雨の訪れを匂わせていた。

部屋で休むという選択肢もあったが、私は散歩に出かけた。現在の体重は理想にはほど遠い。少しでも体を絞りたかった。

私が暮らしているのは住宅地で、これといったランドマークはない。常識的な外観をそなえた一戸建てが連なっている。

歩みを進め、交差点に出た。

横断歩道は渡らずに坂道をのぼる。ゆるやかな傾斜が程よい負荷となって減量中の身には嬉しい。

スマートフォンを取り出せば、目標としている歩数に達したようだ。

さて帰ろうと思った時、視界に奇妙なものが映った。

それは赤茶色のペンキを塗られた杭の群れであった。

杭は地面に等間隔に打ち込まれており、私の腰ぐらいの高さである。それぞれの杭と杭のあいだは鎖で結ばれていて、私有地への侵入を阻むという役割を果たしている。

その色は血を連想させた。

ぬうっと立っている杭たちを眺めていると、胸がざわついた。

杭の設置者はなぜ、このように赤みが強いペンキを選んだのだろう。ただの茶色ではだめだったのだろうか。

じっと観察すれば、杭の輪郭は直線では構成されておらず、微妙に歪んでいた。

杭がまるで生き物のように感じられて、私は坂道を下りた。

部屋に戻ったあとも杭のことを思い出してしまう。あの杭が喋り出したとしても私は驚かない。それほどまでに、杭には存在感があった。

もしも異界というものがあるならば、その入り口は赤茶色の杭が目印かもしれない。

 

文通のたのしみ

雨に濡れたポストはおなじみの朱色がより鮮やかに感じられた。

本日、旧友への暑中見舞いを投函した。

今年選んだのは、色とりどりの風鈴が水彩タッチで描かれているカードだ。蒸し暑い今日この頃、せめて涼やかなカードによって旧友の心を楽しませたいと思った。

遠方在住の彼女と直接会うことは叶わない。また、電話やLINEで密に連絡を取り合うこともない。季節のカードに簡単な近況報告を添えるだけの、ゆるやかな交わりである。

文通という営みの距離感が心地よい。

私は他者に対して過剰に心を寄せてしまう。よって人間関係が濃くなりがちである。孤独に弱い性格に起因する失敗をたくさん繰り返した。人を傷つけたことも多々あった。記憶の浜辺に後悔という荒波が毎日のように押し寄せる。中年とは重たいものだ。日々の労苦だけでなく過去も背負わなければならない。

旧友もまた来し方を振り返り、胸を痛めているかもしれない。いや、ユーモアにあふれる彼女のこと、愉快な未来を思い描いている可能性も高い。

離れてはいるけれども、細くゆるやかではあるけれども、私たちは確かに繋がっている。

暑中見舞いは来週の頭には彼女が住む、坂の多い街に届くだろうか。

旧友にとって幾ばくかの慰めになりますように。